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Sketch002

​「存在」の見取り図

​創作インタビュー①後編

 

何を表現したいのか、何を表現したくて演劇という手段を選んでいるのかということの根幹を、いますごく問い直してます

 

自称ゆるふわアバンギャルド集団「うんなま」の代表であり、『ANCHOR』の作・演出を担う繁澤邦明氏。創作初期段階のインタビュー記事全文をあまり校正を入れずに掲載することで、これまでとこれからの生々しいソウゾウ活動の一片を描く見取り図の後編です。

March, 2021

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|延期になった時点でその公演ってのは一回死んでいるんです

 

 コロナのこと(注:緊急事態宣言)がなったときに、最終的には劇場の要請をうけて劇団として尊重して公演延期にしましたという話ではあったんですけど、実際のところは劇団のなかでもこれは公演延期しましょうという判断になっていました。それは、演劇の稽古をやることがコロナの感染リスクを踏まえてということが大きかったんですけど、僕自身もなんでこういう状況のなかで演劇の公演をやるのかというところは、何回も会議をしていて、だいぶナーバスとまではいかないまでも思うところはありました。それは純粋に演劇を観ない、やらない期間が長かったことで、じゃあ別に演劇の公演しなくていいんだ、観に行かなくていいんだって身も心も馴染んでいったっていうこともあるでしょうし、演劇って分野のなかでもいろんな思いの交錯ってあったし、いわんや別の産業とか農業とかの色んなぶつかりあい、擦れ違い、分断というと大仰ですけど、があるなかで、自分たちが演劇をやらなくていいんじゃないか、あるいはそういう状況下のなかで配信演劇をするとか、なにかこうコロナ禍でもできることをやるというモチベーションになかなかなりにくかったというのが、やっぱりあった気がしますね。そういうとなんで逆にいまやるに至ってるんだろうと思われなくもないんですけど、きっかけに何があったかというと、これ僕自身思ったんですけど、延期になった時点でその公演ってのは一回死んでいるんです。中止とあんまり変わらないというか。明確に終わってるんです。そう考えると、僕らもちゃんと、こういう配信、インターネットをつかった表現のうんぬんとかにちゃんと真面目に興味をもちだしたのがやっぱり夏が明けてくらいからだったので、なにかしないといけないから配信とか通信の手段をやりだしたのではなくて、ああこの状況があるな、だったらどういうことができるだろうかという、義務責務じゃなくて純粋な意思として、劇作、創作にモチベーションが向けたかなと思います。

|リモート稽古の秘訣というのは、モニターの外にあるものをちゃんと意識しながら存在できるか否か

 

 リモート稽古自体は初めてでした。最初の方はやっぱり、なんかこのテレビ画面、パソコン画面に引きずられている感じが特に演者の方に大きかったのかなと思ったりしました。これもあまりことばに整理できてないんですけど、読み合わせでもなく、立ち稽古でもないみたいな。カメラに映る自分をつくろうとして演技をするんじゃなくて、カメラの向こうにいる人に向かって語り掛けようとする。しかも、その語り掛けようとしてるのに自分の顔が映っていて、ギャラリービューにするとシーンにも出ていないような人が無の表情で観ているみたいな。そこにやっぱり苦しむ、苦しむというかわからん、馴染まへんというのはありました。ただ、それもなんとなく、何回かやるうちに、整理されていったのかなと思ってまして。やっぱり情報の取捨選択というか、僕なんか例えばこうやって会議していてもそうですけど、あんまりカメラ観ないんですよ。たまにしか観てない。全部ずっと観ながらしゃべるとどんどんどんどん身体がこわばっていくというか、本当にキューッとなっていくと思っていて。個人的にはリモート稽古の秘訣というのは、モニターの外にあるものをちゃんと意識しながら存在できるか否かなのかしらって思っていて。自分の身体でも、モニターに向かってキューッとなっていくと、逆に自分自身もモニターに映っているものしかないような感じになっちゃうというか。ただモニターの外には広い部屋があったりするわけで。そこにいる、広い部屋に映っている自分がモニターにピックアップされて発信されている、その楽な所在の仕方というのをもしかしたら見つけられる人は見つけたのかもしれないし、僕自身がふと思ったのはそういう感覚なのかな。

|みんな違う想像力のなかで合流しているみたいな、そういう身の置き方というか、存在の捉え方

 

 あとふと思ったのは、もちろん台本もペーパーで観ている人もいれば、モニターで観ているひともいたんですけど、試しに意識としてやってもらえませんかといったのは、ことばの上で、戯曲の上で俳優が合流している、みたいな。これも訳わかんないですみたいに言われたこともあったんですけど。テレビ会議のなかで、ZOOMの中で合流しているのじゃなくて、ことば、テキストの中で合流しているみたいな。テキスト、戯曲というのが、いわゆるオンラインゲームによくあるじゃないですか、仮想空間みたいな感じでそこに台詞を置いていく感じでやってみてくださいってのがあったり。話変わるんですけど、僕が客演していた劇団の小屋入りしてからのアップのひとつで、本番日の朝、舞台美術が組まれていて、客席もあるんですけど、キャストはみんな客席に座って、客席から舞台上に向かってシーンをまわす、台詞だけ置く。台詞を置くなかで舞台上での自分の立ち振る舞いもそうだし、相手役の人がどういうふうにいるかも想像しながら読み合わせをする。台詞をあわせるという稽古を僕自身が客演先でしたことがあって、それもなんか同じような感じなのかなって思ったりもしました。舞台上というかテキスト、戯曲の空間、仮想空間のなかで、それは想像力のなかで自分も置くし、相手もそこに存在すると思ってやる。それもある種視界とか肉体的なこわばりとか、私はここにいるというのじゃない、そもそもみんな違う想像力のなかで合流しているみたいな、そういう身の置き方というか、存在の捉え方というのは結構考え方のストレッチみたいになったような気がします。そういうことをいろいろやったりしてると、かつリモート稽古に慣れたってのもあって、身体性とか会話している空気とか、間というのがどんどんどんどん獲得できていったんじゃないかなと思っています。そういうのを経てまた集合稽古で何が起きるんだろうって。もしかしたら何となく集まって、何となく読み合わせしたり立ち稽古しているよりも、自分の存在、身体も含め、相手の存在、身体も含め、想像するっていうのはできる機会だったのかもしれないなと思ったりしました。

|僕らが創っている作品っていうのがどういう意味で価値を持ちうるのか

 

 コロナ云々の話に戻るんですけど、コロナ以前にみたつぶやきで非常に印象に残っているのがあって、小劇場演劇っていうのはアッパーミドルクラスのお遊びだからねみたいなのがあったんです。その言葉っていうのは非常に心に刺さっていて。じゃあ小劇場演劇っていうのはアッパーミドルクラスのお遊びだって考えたときに、何をどうしたらいいのというのがあって。小劇場演劇っていうのはアッパーミドルクラスのお遊びだってことばには、アッパーミドルクラス以外の人がいるよねというのがあるし、お遊びというのはもちろんお遊びじゃないガチの、例えばプロフェッショナルな仕事だったり、じゃあお遊びだったら小劇場演劇じゃなくてもいいじゃんみたいな問いも逆説的に立てられると思うんですけど。うんなまっていう団体自体は遊びの一環みたいなところがどうしてもありますよね。創っている作品的にも。遊びって言い方も多様すぎてぐちゃっとしてるんですけど、ひとつ言い方を変えると、僕らが創っている作品っていうのがどういう意味で価値を持ちうるのかというのはやっぱり意識していきたいなと思っているのはあるんですよ。価値の作り方のひとつで試作的にやったのがAI・Hallでの地震・防災を扱った作品だったというのもあって。あれ自体がいろんな感想、意見をもらっているんですけど、あの公演で印象的だったのは公演をやった一週間後に、大阪の北部で結構大きな地震があって、観に来てくれた知り合いの人から、その人はあんまり演劇を観ない人だったんですけど、あの作品を観てよかったですと。それは多少ジョークも交えつつではあるんですけど、作品の存在の仕方というのが僕はすごい印象的なところではあったんです。そういうことも考えると、うんなまの作品っていうのは楽しめる人には楽しめる、楽しめない人には楽しめないという魔法の一文があると思うんですけど、楽しめない人の方が多いのかなとずっと思ってはいるんです。

|どういうカウンターのポジションとして自分たちの作品を世の中に置けるか

 

 あらためて考えてみると僕だけもしかしたらさもしいことをやっているのかもしれないなあってなんか思ったときに、じゃああらためて誰に観てもらいたくて、なぜこれを自分たちでやっているのかっていうのは、やっぱりコロナ禍っていうのもあるし、ちょっと問い直していかないとなと。あるいはもう誰も観なくてもいいから、漂わせ続ける活動をするんだったらもしかしたら舞台でやらなくてもいいのかもしれないなと思わなくもないわけじゃないですか。リモートコントなんていくらでもYOUTUBE上にあがっているじゃないですか。ただ、一方でウイングフィールドとかAI・HallとかKAVCとかが、これもどこまでどう受け止めるかというのもあるんですけど、こういう劇場主催とか、劇場共催の企画にうんなまをピックアップしてくれているというのはやっぱりありがたいことだなと思うし、じゃあそれにどう応えていくか。応えるために自分たちがどう好き勝手やるか、てのは考えますよね。そう考えるとやっぱり、希少価値をつけていかないと。希少価値をつけていかないといけないということば自体希少価値じゃない、とてもダサい一文なんですけど。なんか結論、うんなまがウイングカップ以前に評価されたのってやっぱりそれなりに希少価値のあることをやってたからやと思うんです。小劇場演劇、現代演劇の世界で、かつ大阪という場所において、なんか変なことやってるなというのがあったと思うんで、そこはやっぱりコロナのこういうなかだから、杓子定規でこうした方がいいよねじゃなくて、もう一度純粋に、作演のわたしが中心になると思うんですけど、インスピレーションというかイマジネーションというか、何を表現したいのか、何を表現したくて演劇という手段を選んでいるのかということの根幹を、いますごく問い直してますね。それはやっぱりコロナのことがあって、時間も生まれているし、例えば文化庁の助成金でハード面の拡充ができるようになっているというのもあるし、時代的にも希少価値というのが大事な時代だと思うんで。希少価値、オリジナリティ。そういう作品、団体として、パフォーマーとして、関西の小劇場演劇界だったり、演劇全体だったり、アート、世の中、いろんな視点があると思うんですけど、どういうカウンターのポジションとして自分たちの作品を世の中に置けるか。そういうところにモチベーションがすごい湧いてきてはいますね。

|希少価値っていうのは、僕の故郷を探す旅なのかもしれない

 

 正直ちょっと前までは、演劇としてどうしたらいいのかということを考える時期も結構多かったし、活動がちょっと土台に乗ると、すごくイベントが多発しすぎるというか、誘われる公演の数があまりに多いというか、何かそういう悪い意味でのレールというかはしごというかエスカレーターというか、にしんどさも正直あったんで。ただ、このコロナでゼロリセット、ご破算されているなかで、じゃあもう一度なぜ自分たちはこれをやっているのか、自分たちは何を面白いと思っているのか。自分たちが舞台上にあげる役者にせよ、色んな演出効果にせよ、ことばっていうのは、なぜいま置く必要があるのか、というのはわりと前向きに問い直せるようになったかなと思います。で、やっぱり、希少価値です。レアキャラになりたい。レア度をつくるのはいま流行りだと思うんです。『ANCHOR』もそうなんですが、こういうデジタル時代って、故郷みたいなものがあんまりないよなって思っているんです。自分の根源的な由来というか。僕自身が出身の、今住んでいる大阪も別に出身地じゃないし、僕が生まれた兵庫県明石も親の出身地ではないみたいな。土着的な、自分の出身地にある盆踊りが僕の創作の根源です、みたいなのがないわけです。まちもどんどん再開発されるし、なにかあったら地震が起きてまちっていうのは一回リセットされちゃうところもあるし。なんなんでしょうね。希少価値っていうのは、僕の故郷を探す旅なのかもしれないです。うんなまが目指すのは、もう一度根源に立ち返って、素直なオリジナリティを見つけたいなと。そうしたら勝手にいろんな人が価値を与えてくれるという気がしないでもないです。

2020.12.27​

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語り手
繁澤邦明

うんなま 代表

聞き手
紺野ぶどう

オーチャードシステム 代表

 
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2021

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