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Sketch002

​「存在」の見取り図

​創作インタビュー①前編

 

台詞のフレーズ、台詞の意味だけじゃないものが、舞台上で交わされることばに乗っかって出立していくと面白いなって思っています

 

自称ゆるふわアバンギャルド集団「うんなま」の代表であり、『ANCHOR』の作・演出を担う繁澤邦明氏。創作初期段階のインタビュー記事全文をあまり校正を入れずに掲載することで、これまでとこれからの生々しいソウゾウ活動の一片を描く見取り図の前編です。

March, 2021

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|初期のうんなまというのは非常に情報量が多いという

 

 初演の『ANCHOR』をどんな感じで創っていたかというのを思い返しているんですけど、劇団として賞レースに参加してみよう、ということを意識した公演だったんです。初期のうんなまというのは非常に情報量が多いというか、情報量の中で本質的なものとか共感できるものとか、あるいは面白いものとか、いっぱいの要素を定量的に垂れ流しているので、それが予期しているところも予期していないところもあれど、観ている人のなかでシナプスが結合するじゃないですけど、偶発的にもなにかパズルみたいにピースが合わさった瞬間のアハ体験のような、そういうところが面白みの要素として大きかったんじゃないかなと思っているんです。『ANCHOR』は、なんとなく面白そうなことを好き勝手やっていたら面白がってくれる人が増えてきたということがあって、じゃあ本当に面白いんだろうかみたいなことを探った公演でした。

|フラストレーションの行き先を求めて放浪するのが、たぶん初演だった

 

 初演のときにどういうことを意識したかというと、ひとつ明確にテーマとしてあったのが、自分の目に見えるものと自分の手が届くもの、そこの2点。知ることのできるものと影響を及ぼすことができるものの距離、あるいはその違いについて、すごく思いをめぐらしながら作った記憶があります。目に見えるもの、ひとつ言い換えると<情報>という言い方ができると思うんです。2016年というのは、ドナルド・トランプ旋風が起きていた年で、ポスト・トゥルースとか、ポリティカルコレクトとか―これは実際に作品を観た人の批評とか感想のことばの中にもいくつかあったんですが―そういう正しいと思っているものが本当に正しいのか、あるいはその正しさというのは選択された、加工された正しさなんじゃないかみたいな言説が非常に流行った年だったと思っています。というのもあって、この初演の『ANCHOR』をあえて物語として要約するのであれば、自分はなにか悪いことをしてしまうんじゃないかと思いこんでいるひとりの青年が、まちを彷徨い歩きながら、劇世界のなかで観客や舞台上の人を人質にとり、劇場のなかで使われているスピーカーを爆弾に見立て、劇場の外にあるまちの流れを観ながら、爆発したという意味の暗転と無音を得て作品が終わる。自分が何か悪いことをしてしまうかもしれないというのは、本当に一言でいうとすごく思春期的な幻想というか、そういう思い込みとか気のせいとか勘違いというのが劇中の色んな立ち回りとか台詞のなかで多分にあるんです。思い込み・気のせい・勘違いが自分の中の火種になっていきやすいというのも、ある種、幼稚な要約かもしれないですけれども、インターネット時代というか、2010年代後半とかにいろんな意味での自我が勝手に肥大化してしまいがちだというのは、作品に籠っていたテーマだったかなって思いますね。そういう、自我の肥大というか、ある種のフラストレーションの行き先を求めて放浪するのが、たぶん初演だった。じゃあ再演がどうなるのかというと、そこの良くも悪くも独りよがりだった初演を、お行儀良くなるという意味ではなくいかに発展させていけるかというのは、ひとつ思っているところではあります。

|一つ一つの要素を因数分解というか、解像度をあげていきたいと思ってるんです

 

 初演というのはたぶん問題提起だったと思うんです。もしかしたらアートっていうのは大概が問題提起なのかもしれないですけれども。じゃあ再演っていうことで回答まで用意すると、矮小というか、小さい世界になってしまう。問い自体をもう一度問い直したいし、より大きな視点でも見たいし、一つ一つの要素を因数分解というか、解像度をあげていきたいなと思ってるんですよね。純粋に問い自体のタイムリーさの見直しは必要でしょうし、いわんやコロナ時代というのもあるので。

|再演は広い空間に彷徨う・漂う・揺蕩う雰囲気になるのかな

 

 初演との相違点でいうと、会場がハードという意味で明らか違いますよね。狭くて密で小劇場的閉じ込め感ありありの会場からぼーんと飛び出そうとする意味が初演にはあったんですけど、KAVCは比べると明らかに広いし、観客の中の空気感が違うと思うんです。初演は密をぎゅむぎゅむに駆け巡るような雰囲気とすると、再演は広い空間に彷徨う・漂う・揺蕩う雰囲気になるのかな。じゃあKAVCだと小劇場的な熱狂はやりにくいんだろうなと思うんですけど、役者の皆さんはすごく熱量をぶちまけてください、身体を躍動させてくださいって、そうじゃないじゃないですか。そうなったときに映像とか照明とか音響とか、舞台装置、ギミック的なものとかを使って、お客さんの観ているなかで、「静かな熱狂」じゃないですけど、小劇場的な、想像力ゆえに成り立つイメージっていうのはどうつくったらいいかしらというのは今まさに試案しているところです。事実としてキャストの数も違う、のかな。あんまり初演でこういう人数のキャストがいたので再演のキャストはこうですという集め方をしてなかったので。(確認して)今回でいうと、キャスト16人のうち7人が映像のみの出演なんです。これはなんなんだろうという思いもするんですけど。ZOOM演劇の走りですね笑。

|台詞の量と台詞の中にある情報量は結構気を使って整えている

 

 なんでそういう手段をとったかというと、結局やりたい人とやりたいことをやりたかったからという学生演劇の延長線的な視点がどうしてもありました。ただ、まあ増えましたね。初演だと映像出演は2人、声のみの出演が1人。当社比3倍ですよ、300パーセント。ただ、映像が舞台転換の間に流れるとか、明確に映像だけでシーンつくって、生身だけでシーンつくってというのにもならないようにウチはしているんで。それは映像のみで話すこともあれば、生身の役者同士で話すこともあれば、映像と生身が会話する、あるいはそれ以外の関係も。あんまりこういう構成で上演している作品はないと思うので、力を入れていきたいなと思います。あとは、言葉の数が減ってきているというのは特徴かもしれないです。いまも再演の稽古をしていて、ことばの数というかひとり語りを多くし過ぎるとやっぱりぴんとこない、あんまり面白くない。作品としてのテンポが落ちるな、てのはあったので、台詞の量と台詞の中にある情報量は結構気を使って整えている最中ですね。

|うんなま的な空間の支配

 

 AI・Hall(『ひなんくんれん』|2018)のときは、キャストの数も少なかったんですよね。僕いれて4人という状況でやっていて。それはそれで空間の配置、器としての劇場空間に対して、舞台空間、あるいは俳優という素材をどう置くかというのはすごく印象的な公演ではありました。もちろん台詞のチョイスの仕方も関係はしていたんですけど、特にすごく意識したのは、ポツンと存在しているというか、小劇場的エネルギーでばーんと小さい狭い空間を飛び越えるぞというよりは、劇のなかで行われている会話の情報、あれは「ぼうさい」というのがテーマだったがゆえにそうなんですけど、劇のなかで扱われている情報が劇を超えて揺蕩うというような、すごく小さい狭い空間で行われていることが、そこの空間を超えて、劇場とか劇場に来たお客さんを媒介として漂っていくみたいなのがテーマのひとつとしてありました。そういう意味では、うんなま的な空間の支配というか制圧の仕方っていうのは、広いからよりエネルギーを増すというよりは、広い空間のなかに何を漂わせるか、揺蕩わせるかっていうのが大きいんだろうなというのは思ったところです。ちょっと前だったら印象的な台詞のフレーズに漂ってもらうことを期待していたんですけれど、それが台詞のフレーズ、台詞の意味だけじゃないものが、舞台上で交わされることばに乗っかって出立していくと面白いなって思っていますね。

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語り手
繁澤邦明

うんなま 代表

聞き手
紺野ぶどう

オーチャードシステム 代表

 
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2021

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