

Sketch002
「存在」の見取り図
リモート稽古リポート
のっぺりとしたモニターという情報の向こう側に拡張された存在を探していた
うんなま『ANCHOR』はコロナ禍で創作が進められました。稽古開始時点におけるリモート稽古のリポートを通じて「存在」の一片を描く見取り図です。
March, 2021

|序
2020年11月のとある日。意味のない文字の羅列によるアドレスをクリックすると、そこにはいくつものモニターが一斉に映っていた。ひとつひとつのモニターにはインターネットを介して繋がった、背景のさまざまな役者の上半身が並ぶ。「一方的に喋るのではなく、できるだけ雑談をしましょう。」。2021年3月の上演を予定しているうんなま『ANCHOR』のリモート稽古は、代表であり作・演出を担う繁澤邦明のことばではじまった。
「ラジオドラマ調で」「真心がないけど優しい人で」「迷い込んだ子羊で」。イメージを膨らませる指示(或いは提案)が出され、ギャラリービューの役者たちは脊髄反射的に反応する。『ANCHOR』は再演であり、初演から継続の出演者も多い。なので、ある程度ベースが出来ている状況からブラッシュアップしていく稽古を予想していたが、実際は大きく異なっていた。「色んな読み方をしてもらって良いです。正解はないので。」「初演でもやってもらいましたが、同じようだけど違うんです。」というサジェスチョンのもと、役者は自由奔放に台詞を発していく。再演でありながら今回の『ANCHOR』が単なる前作の焼き直しではないという繁澤の強い思いと、再演だからこそそれに応えようとする役者との強固なチームワークが感じられる座組に、新たな作品としての『ANCHOR』への期待は高まる。
「拡張」を今回のテーマにしたい、と繁澤は稽古の終わりに言った。このレポートでは、リモート稽古に実際に参加した体験をもとに、従来から映像を活用するうんなま作品の特徴を過去の公演履歴から追ったうえで、<情報>をキーワードに、うんなまが描こうとする<存在>の一片を書き留めたい。
|コロナ禍と映像表現
2019年12月の中国・武漢における感染確認に端を発した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)により、文化芸術は世界規模で甚大な影響を受けている。特に、感染拡大対策として密閉・密集・密接を避ける、いわゆる「3密の回避」は、舞台表現に難題を突き付けるものとなった。なぜなら、本番を迎えるために行う練習(稽古)は、長期間において、えてして狭い場所で、多くの関係者が顔を突き合わせる空間そのものだからである。一方で、通信回線の高速化や、オンラインでの多様なコミュニケーションツールが開発(一部のサービスは無償で提供)されてきたことで、これまでも新しい稽古のあり方を検討する材料は用意されていたともいえよう。そのような状況下において、コロナ禍が様々な公演のリモート稽古を促進したのは必然であったし、『ANCHOR』でも取り入れられたのである。
とはいえ、うんなまの作品における映像表現はこのコロナ禍にはじまったものではなく、すでにひとつの特徴ともなっている。『tango@bye-bye』(2014年|Cafe Slow Osaka)、『としくんとリボルバー』(2014年|OVAL THEATER(旧ロクソドンタブラック))あたりの作品以降、劇場外に広がる光景とも登場人物や観客の心象風景ともとれる映像や、お馴染みと化したサングラスをかけた人物(主に宮本将吾が演ずる)をはじめとした役者たちの映像が、観客からすると不意打ち気味に挿入されるようになった。この傾向は、うんなまの2作目(当時は「劇団うんこなまず」名義)であり、真の旗揚げ公演ともいえる『「さだだだ。」』(2011年|ロクソドンタブラック)でも繁澤の作家性としてすでに表れている。三人の少女と三人の転校生が、誰かを待ち、誰かと離れることを描いたその作品では、映像こそ使われていなかったが、時折挟まれるパフォーマンスシーンが映像の代わりを担っていたといえる。切り刻まれたシーンの唐突な介在によって、観客は与えられた情報の洪水に呑み込まれ、マヒした脳は想像力を加速度的に拡大させ、快楽成分を分泌した。それは例えるならばMAD動画(注:既存の音声・ゲーム・画像・動画・アニメーションなどを個人が編集・合成し、再構成したもの。(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』|2021/2/8))のようであった。動画配信サービス「ニコニコ動画」が2006年に提供開始され、海千山千のMAD動画を深夜にむさぼり観た当時の感覚そのものが、まごうことなく劇場に充ちていた。<情報>を武器としたうんなまは、演劇界に生まれるべくして生まれたネット時代の申し子であった。
|リモート稽古と<情報>
『ANCHOR』のリモート稽古で使用されたツールでは、カメラ機能をオフにすればモニターはブラックアウトし、マイク機能をオフにすればミュート(消音)であることが表示され、音声は聞こえなくなる。デバイス環境によって差異はあるものの、オフ設定にしないかぎり役者たちの表情や佇まいといった情報がモニターを通して一律に垂れ流される。その様は、繁澤のことばを借りると「舞台上に出ずっぱりで居るよう」であった。これは役者が開演と終演の出ハケ(登場と退場)以外ずっと舞台上に立ち続ける、うんなまの基本スタイルに近く、相性は良かったのではないだろうか。しかし、役者たちには、あまり経験したことのない稽古環境に戸惑う場面も見受けられた。
要因は大小あるようだが、ひとつに、ギャラリービューでは情報が等しく表示されていることによって、どこの誰に、どのように台詞を発するかの感覚を得にくいということがあったようだ。その課題を解決するために、稽古においては、カメラ機能のオン/オフを切り替えさせたり、ウェビナーのようなオンラインであることを前提とした場面設定を課したりと情報を制御するための試行錯誤が行われていた。情報の取捨選択。これはうんなまの作品を語るうえで外せない要素である。ここで『ANCHOR』の冒頭の台詞の一部を引用しよう。
男1 僕にはふるさとがない。ふるさとが無いと言うことは帰る場所が無いということなので、僕はもうかれこれしばらくの長い間何処にも帰っていないので、家、もう家もどこにあるのかわからなくなった。もう帰るということができなくなった。ので、もう帰れない。むしろ、帰れない。もう帰れない場所に、帰りたいのかもしれない。僕は、ふるさとに、納税。ふるさとに、納税、納税したい。自分のためじゃなく、ふるさとのために、納税したい。(後略)
稽古で使用したテキストであり上演されるものと一致するかは定かではないが、手元の分量はここで掲載した2倍ほどある。繁澤曰く「ジェットコースターのように長い塗り絵のような台詞」において語られているのは登場人物が自身にふるさとがないと思っていることだけであり、明らかに情報過多である。観客はここから能動的に各自必要な単語を選び取らなくてはならない。一方、舞台上に目を向けると一転、非常にシンプルな印象を受ける。初演時の『ANCHOR』を例にあげると、舞台は白を基調とし、ビル群を思わせる直角のジグザグで構成された無機質な背景に、いくつかの箱が置いてあり、役者たちは装飾少なめのモノトーンの衣装に身を包んでいた。作品ごとに要素は異なれど、これらもまたうんなまの基本スタイルのひとつである。聴覚情報である台詞の物量に比べ、舞台上の視覚情報は大胆に削ぎ落されていることがわかる。観客が何に混乱し、何に導かれるか、情報の交通整理が行われているのである。前述の一見とっつきにくい台詞であっても、全体として「ことばを手足のように何かに、或いはどこかに引っ掛けようとして喋ってほしい」という指示が与えられていることからも、観客を置いていきたい意図があるわけではないということはわかる。このような繊細な情報の取扱いが、うんなまの作品がつくられる上で大きなカギを握るといえよう。
役者たちが戸惑ったもうひとつの要因として、モニターに向かって稽古をするうえで視界が狭まったり、肉体的なこわばりを覚えたりしたということがあった。そもそも初回稽古で繁澤は、台本を読むときに「画面の外を意識しなくていい」と指示していた。デバイスを通してネット空間から言葉が出てくるというのは、プロセニアムアーチを通して舞台空間から言葉が出てくるこれまでの劇場の光景とある意味で同じなのではないかと捉えていたようだ。しかし、後の見取り図のインタビュー(2020.12.27)で、繁澤はリモート稽古の秘訣を「モニターの外にあるものをちゃんと意識しながら存在できるか否か」と説明し、捉え方を変化させた。実際には広い部屋があるのにも関わらず、映し出される小さなモニターに自身が押し込められるような感覚を取り払うこと。それは、目の前に映るモニターという情報だけに囚われず、その奥に、向こう側に存在するはずの物事まで拡張して捉えることと言い換えられる。そしてそれは役者たちの在り方だけでなく、我々がうんなまの作品を観るときにもそのまま当てはめることができよう。舞台上で起こる情報の洪水に囚われず、計算された交通整理にアンテナを立て、そこで描かれようとする真意を拾い出すこと。うんなまの作品の奥深き魅力は、取捨選択した目の前の<情報>から拡張された部分にこそ、ある。
|まとめ
稽古前に渡された数ページ分の台本からはト書きが落とされていた。再演であるからには戯曲も最初から存在しているはずだが、あえてバラバラにし、さらにト書きを排すことで役者に自由に台詞を読ませ、作品として新たに何ができるかを貪欲に模索していたのだった。「台詞には鮮度がある」という繁澤にとって、フィクション―曰く“情念とパトス”―とリアル―曰く“フワフワ”―をあえて入れているという戯曲は、絶対に混じらない二層をいかに並存させるかという思考実験の報告書であり、それは常に最新でなければならない。そのためにリモート稽古は絶好の実験場であった。「リモートならではのコミュニケーション、つまりは身体性を獲得していきたい」。稽古冒頭で雑談をしましょうと言った繁澤は、のっぺりとしたモニターという情報の向こう側に拡張された存在を探していた。
『ANCHOR』に参加する役者たちの位置付けは様々だ。生活拠点は関西圏に限られておらず、公演日に劇場で実際に演技をする者がいれば、事前収録というかたちで「リモート出演」をする者もいる。これまでも映像を活用してきたうんなまにとって、リモート稽古で得た経験値は必ずやこれからの作品に昇華されていくに違いない。
紺野ぶどう
オーチャードシステム 代表