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Sketch001
​「距離」の見取り図
​レポート

 
戯曲からみる「時間」と「距離」

 

 いちろー/MUSIC LIVE PERFORMANCE『SEE SHE SEA』の戯曲の変遷を通して「時間」と「距離」を考察する見取り図です。

August, 2021

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|序

 

誰もいない場所。物音ひとつしない静けさを、ラジオが不意に打ち破る。音楽が、いつかどこかの風景を運びこむ。

 『SEE SHE SEA』はこのト書きからはじまる。空間説明の次に音の描写が続くのは、瀬乃一郎が作曲家由縁だからだろうか。劇場に訪れる観客は、まず舞台を視覚で把握し、次に音を聴覚で捉えることで、「風景」という物語に引き込まれていく。「音」を軸に体感する時間の流れどおりに、かつリリカルに記された冒頭の文は、瀬乃の作家性を如実に表している。

 演劇は「時間」のかかる表現手法である。観劇には概して数十分から数時間の身体的拘束を伴うし、創作期間は数カ月に及ぶことも珍しくない。仮に、作品を鑑賞したい観客と作品を発表したい創作者とが創作開始時点でいるとするならば、観客に届くまでにはかなりの時差が生じている。当初マッチしていたはずの需要と供給バランスが上演時には崩れてしまった、なんてことも起こりうるのだ。江戸時代に花開いた歌舞伎を思い起こすと、世相を騒がす心中事件などワイドショー的な題材をいち早く取り上げて上演するというメディア要素を帯びていた。しかし、情報社会と化した現代において、演劇のレイテンシーは致命的である。このように演劇が払う「時間」の代償は非常に大きい。他方で、それだけ「時間」がかかるにもかかわらず、さっきまで存在していたはずの世界が次の瞬間には消えている刹那性は観る者の心を掴んで離さない魅力のひとつでもある。
ここでは、瀬乃(当時は「いちろー」名義)がはじめて手掛けた『SEE SHE SEA』の構成や成り立ちを紐解きながら、演劇における「時間」と、その「距離」について考察する。なお、瀬乃は自らの文字の連なりを「テキスト」と称するが、本稿では「戯曲」として扱うことにする。

|「時間」は「距離」

 『SEE SHE SEA』は、プロローグとエピローグ、8つのチャプターの計10章から成る。各章は、マイとリコという2人の登場人物が交互に現れる構造となっていることから、一般的な戯曲にある台詞前の発話者の記載がない。台詞は対話式(ダイアローグ)ではなくすべて独白(モノローグ)である。さらに独白は日常会話調ではなく、印象は詩の朗読に近い。また、作品の重要な要素である音楽の指定も戯曲ではなされていない。

今回、戯曲の成立過程を克明に追うことができたことから、19年6月の上演に向けた時間軸に沿って、その道のりを歩んでみることとする。

 

・18年11月8日

 「Text|テキスト(サンプル)」として、とっかかりとなる言葉や台詞がA4用紙2枚にわたり、ブレスト的に拾い集められた。これまでに瀬乃が手掛けた楽曲群からイメージを膨らませており、「海」や「街」、「暗闇」など『SEE SHE SEA』に繋がるキーワードが見て取れる。

 

・18年12月8日

 「メモ Fill me.」として、前回収集したものから取捨選択された言葉や台詞と、公演の断片的な構成がA4用紙4枚に収められた。当初のタイトル案は「Fill me.」で、上演形式は「あとかた・アパトメントノオト+αの音楽でライブ」とし、瀬乃の楽曲が演目にセレクトされている。

 

・19年2月11日

 タイトルが『ADSR』となる。ADSRは電子楽器の音量変化に関わる概念の略称で、Attack/Decay/Sustain/Releaseの頭文字から取られている。チャプターは6に半減する。後に『SEE SHE SEA』の屋台骨となる「手紙」のモチーフが現れ、明示はされていないが「死」のイメージの強い内容となっている。

 

・19年2月25日

 プロローグとエピローグ、12のチャプターから成る戯曲形式にまとめられた草稿であり、タイトルが「s/ʃíː」(シー)に変わっている。キャスト表には4人の演奏メンバーのほかに<放すひと>と<拾うひと>という2人の登場人物が記された。冒頭には「これまでに書いた曲、新しい曲、それらを結びつなぐようなテキストにしたい」という宣言が添えられている。

 

・19年4月14日

 『SEE SHE SEA』のタイトルのもと、チャプターは9つになり、2人の登場人物にはマイとリコという名前が与えられ、それぞれ「そとからきたひと/船乗り」と「うちにこもるひと/被災者」に変更された。設定は「二人が書いた、(あなた)宛ての手紙を読み上げる形式で、進行していく」としている。時点での第0稿とされ、新たにプロットが追加されたとともに、2月11日付の宣言はカットされ、代わりに「あくまでもただのテキスト。脚本でも戯曲でも歌詞でもない」と記載された。一方で「そう使うことになるかもしれない」と続けられており、その扱いに揺れていることが見受けられる。

 

・19年4月28日

 プロットの微修正が行われた。海上にいる「そと」のマイと、被災して「うち」にこもるリコが、それぞれ(あなた)宛ての手紙を時差をもって受け取るストーリーとなっており、設定に差異はあれど上演時の展開に近しいかたちを形成しつつある。

 

・19年4月29日

 プロット概要が整理され、手紙の宛先だった(あなた)が「アナタ」という登場人物に格上げされる。

 

・19年5月2日~19日

 練り上げられたプロットを戯曲に反映し、10章に再編成される。ズシリと覆いかぶさっていたネガティブな「死」は、遺された人や言葉に焦点が移ることでポジティブな要素を含むものとなり、作品として昇華されていく。その後5度にわたり校正が行われた。

 

・19年5月21日

 プロローグとエピローグ、8つのチャプターに整理され、上演時の構成となる。

 

・19年5月25日

 最終稿。

 

 以上、18年11月8日から19年5月25日までの7カ月にわたる戯曲の変遷を辿ってきた。日数にして205日、時間にして4,920時間。時の積み重ねは、ひとつひとつをみると小さな点だが、こうして俯瞰してみると長い線となる。つまり、「時間」と「距離」は、捉え方によっては同一であるといえよう。

|3つのモチーフ

 

 『SEE SHE SEA』は喪失と再生の物語だ。言い換えると、それは「時間」と「距離」の物語である。ここでは「手紙」「ラジオ」「海」という3つの重要なモチーフを取り上げ、戯曲の言葉を引き合いにしながら、瀬乃が捉える「時間」と「距離」について掘り下げたい。


 まずは、「手紙」である。一般的に「手紙」とは、自身の思いや出来事を記し相手に届けるための情報伝達手段のひとつである。しかし瀬乃は「手紙」を<届かないかもしれない>ものとして描く。

 

手紙のいいところは
相手に届いたかどうか、
こちらからは知り得ないところ。
必ず届くことがない相手に送るとき、

どうしてか、届くんじゃないかと
期待してしまえるところ。

だからこそ、届けたい心のうちを身体の外側に吐き出すことができるとする。世界中どこからでもインターネットを介して瞬時に繋がることができる時代にありながら、情報伝達に時間がかかるだけでなく、難さえある手紙でなければ本音を綴ることができないというのは、その距離感に戸惑う現代病ともいえよう。なお、この台詞はマイにより劇中で2度発せられる。手紙は送ってしまえば手元から消えてしまうけれども、どこかで誰かが<過去>のわたしの言葉を<いま>読んでくれるかもしれない。それは「時間」と「距離」を越えた大きな希望なのであった。


 次に取り上げるのは「ラジオ」である。これは前述のとおり冒頭のト書きで触れられているメイン・アイテムのひとつだ。

 

調子の良くないラジオは絶え絶え
声を飛ばしてくれたけれど、
その音波が途切れてしまった

 

 ラジオから流れる番組が仮に生放送であるとするならば、聴いているわたしと同じ瞬間にどこかのスタジオにパーソナリティが存在していることを意味する。それでも瀬乃は、こちら側のわたしとラジオの向こう側の相手には僅かなレイテンシーがあるはずだとする。星の輝きが何億光年も前の爆発によるものであるように、今その瞬間その場所に果たして存在しているといえるのかと。


 最期に「海」を取り上げる。タイトルにも含まれるその単語を抜きに『SEE SHE SEA』を語ることはできまい。瀬乃の作品群にはしばしば「水」のイメージが纏わる。その水が自然界から届くのが、雨だ。

雨はやがて地面をつたって川へ、海へ流れて。

「水」はこうして「海」へと繋がっていく。しかし、海と水が同じだということではない。

 

たとえば、
海の水を、コップですくったら
それはきっと、海ではないでしょう?
それは海だった、水、でしょう?
そういうこと

「海」と「水」の間には時間の経過があり、決して交わることのない距離がある。一方で、「海」はすべてを抱え込んでくれる母である。マイは、洋上でアナタからの手紙を受け取る。その手紙の主は、かつて住んでいた街の人だろう、もしかしたらリコなのかもしれない。その街は被災し、あとかたもなくなってしまった。

足音も、足跡も、
すべてが波にさらわれていく
波が、すべてを呑んでいく
あなたも、あなたとの記憶も。

いっそのこと。
そのすべてを海が呑み込んでくれたら、
わたしはすっかり思い出せなくなって。
そしたらわたしは、あらたしく、わたしを。
はじめることができるだろうか。

置き去りにするように街を出ていたマイは、偶然難を逃れたことにより、逆に街に置き去りにされてしまった。街を出ることのなかったリコは、被災した光景に押し潰されかけながら、手紙に気持ちを乗せて、その光景をつくった「海」へと流す。

そのとき
朝日が水平線から昇った

喪失と再生の相反する両者を同じ「海」がもたらす。海はやがて蒸発し、雲となり、雨となって大地に降り注ぎ、川へ、海へ流れて…。この「距離」も「時間」も超えた永久機関的サイクルもまた、喪失と再生の相似形である。
 

|まとめ

おなじ音を、再生することはできる。
おなじ音を、複製することはできる。
だけどそれは
いまこの瞬間の音ではなくて。
あの響きをいま耳にすることはもうできなくて。

 物理的・心理的な「距離」が存在すると、そこには僅かな時差が生じている。これまでに瀬乃が手掛けてきた劇伴製作は、作曲してから上演されるまでに時差があった。創っているときの自分と、観客に届くまでの「時間」と、思いの「距離」をヒシヒシと感じていたに違いない。だからこそ、瀬乃は『SEE SHE SEA』において、「いまこの瞬間の音」を、何としても舞台にあげたかったのではないだろうか。

はるか遠くの時代から
おびただしい数の命が 言葉が
この海には沈んでいるのだろう。
きっと今も。この水底には。
その上を、わたしたちは生きている。

 

 マイとリコは閉じた目を再び開こうとして劇は終わる。喪失した時間を、再生する時間を見据えるために。そこに横たわる距離を受け止めながら。

 
紺野ぶどう

オーチャードシステム 代表

 
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