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青年と死[春]

Contondo #12

ライナーノーツ

今川裕美(劇的☆爽怪人間)

『青年と死[春]』出演|音楽

 

「死」は絶対的な存在でありながら、不確かな存在感で我々の側にいる。

 

Contondo #12『青年と死[春]』にて、出演とともに劇中曲の作曲・演奏を担った今川裕美氏に寄稿頂きました。内側から創作に携わったからこそ覗き返すことができる、作品をより深掘りするためのライナーノーツです。

October, 2019

青年と死[春]

 

 作曲家と建築士はどこか似ている気がする。好きに作ってよいと言われれば、楽しく自由に自分の好きなものを作る。しかし、注文した人間の求めるものでなければならないという枷がつくと、その自由は苦しみとなる。私の場合、その苦しみを少しでも取り除くのは具体的な注文であった。その点紺野氏は非常に優れていて、彼は「ここには4人家族が住む。夫婦と子供2人。姉は10歳で弟は6歳。母の趣味は園芸です」と、この土地にどんな人間がどのように暮らすのかを示す。その上「木材の種類はあなたのセンスが好きなので、お任せします」と信頼の幅を保つ。彼は創作者に対するリスペクトと、自分の表現に対する高い欲求のどちらも持ち合わせている本物の演出家だった。

 今作の作曲に当たり、全曲について回るものがある。「死」だ。タイトル曲風は異れど、死が常に音楽に存在している。まず考えたのは、私が思う「死」とは何か。「万人に訪れる悲しい出来事」であり、人生の一本軸の終着点にあるものだと私は捉えている。しかし今作「青年と死」を読むと、そうではなかった。「死」は単なる出来事ではなく、存在しているのだ。幽霊か死神か、不確かなものが存在していることに、私は初めて気がついた。少し離れた視界の端に、仄暗い物体がひっそりと在った。

青年と死[春]

 

 曲中に「死」はどのような形で存在するのか。青年たちを導く事もあれば、覆いかぶさるようにじわりじわりと追い詰めたり、少し離れたところから嘲笑していたりする。「死」は絶対的な存在でありながら、不確かな存在感で我々の側にいる。もちろん、あなたの側にも。

 

 「死」をどう捉えるのか、曲中に潜む「死」。青年たちの側に在る「死」。自分自身にとって「死」とは何か。紺野ぶどうの作った「青年と死」というガラス越しに、何が見えるのか目を凝らして見て欲しい。

 
今川裕美

劇的☆爽怪人間

 
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