top of page

HOMEARCHIVEライナーノーツ>沙翁十四行詩集 私を月に連れてって

沙翁十四行詩集
私を月に連れてって

Contondo #10

ライナーノーツ

廣田麻子(和歌山県立医科大学教授)

『沙翁十四行詩集 私を月に連れてって』

監修

 

我々もソネット集を読もうではないか。シェイクスピアが考えて、時間をかけて、韻を踏んだ、 その心の声を聞こうではないか。

 

Contondo #10『沙翁十四行詩集 私を月に連れてって』にて、監修を担った廣田麻子氏に寄稿頂きました。内側から創作に携わったからこそ覗き返すことができる、作品をより深掘りするためのライナーノーツです。

October, 2017

私を月に連れてって

 

 演劇企画集団 Contondo(こんとんどー)による第10作目の『沙翁十四行詩集』は、驚くべき斬新さで幕を開ける。そこに流れるのは、フランク・シナトラ(Frank Sinatra)の「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」。

 

Fly me to the moon, and let me play among the stars.   Let me see what spring is like on Jupiter and Mars.   In other words, hold my hand! In other words, baby, kiss me!  (Bart Howard 作詞)

わたしを月まで連れてって 星空で遊ばせて ジュピターとマーズの春がどんなものか、見せて それじゃ分からないなら・・・つまり、手をつないで!  だから、キスして! (宇多田ヒカル 訳) 

 

 この日本語訳は一般的な訳なのだが、舞台の屋台でコーヒーを入れる男(イトヲ)はその訳に満足せず、英語からの直訳を試みる。「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン、直訳すれば、わたしを月に飛ばせ。」 そして、こう続ける。「わたしを月に飛ばせ。かなりキツめの女なのかなと思う。飛ばせ。」そう、原文の英語をよく見ると、‘fly’ は他動詞の命令形であるので「飛ばせ」、その目的語は ‘me’ 「わたしを」となる。「わたしを飛ばせ」。では一体どこに飛ばすのか。‘to the moon’ 「月へ」。  この歌の一人称である「わたし」という女のことを、屋台の男は「キツめの女なのかな」と想像する。 ワガママな女ともとれるし、突飛な女ともとれる。ひょっとしたら、とてもロマンチックな女なのかもしれない。宇多田訳の甘ったるさをはるかに超えて、原文のシンプルな英語は、力強いさまざまな解釈を許す。『沙翁十四行詩』の幕開けに、このような歌が流れるのは、とても個性的で、かつ、的を射ている。 英国のエリザベス朝にシェイクスピアによって歌われたソネット集を我々現代人が読むときの、もっとも望ましい姿を屋台の男が示すからだ。その姿とは、訳に頼らず原文を読むこと。そして、自分に引きつけて、自分のものとして感じること。そうした時に、エリザベス朝の人の感情の発露である詩が、 現代を生きる我々の感情と響きあい、我々自身のものとなるのだ。そうして劇は、ソネットのテーマに沿って流れていく。

 

From fairest creatures we desire increase,  That thereby beauty’s rose might never die,  But as the riper should by time decease,  His tender heir might bear his memory:   But thou contracted to thine own bright eyes,  Feed’st thy light’s flame with self-substantial fuel,  Making a famine where abundance lies,  Thy self thy foe, to thy sweet self too cruel:  Thou that art now the world’s fresh ornament,  And only herald to the gaudy spring,  Within thine own bud buriest thy content,  And tender churl mak’st waste in niggarding:  Pity the world, or else this glutton be,  To eat the world’s due, by the grave and thee.   (William Shakespeare, Sonnets, 1)

美しいものこそ増えてほしい、と僕らは望む。 そうすれば、美しいバラは枯れることなんてないだろう。 美しく成長したものが時のせいで滅んでしまったとしても、 その子孫が美しさを受け継いでゆくのだ。 だけど、きみ。きみは自分の姿に酔いしれるあまり、 大事な燃料を自分のために注いでしまって、 芳醇な土地に飢饉を起こす。 きみの敵がきみ自身だなんて、あまりに自分に残酷じゃないか。 いま、きみは世界を鮮やかに彩っている。 麗らかな春の訪れを告げるきみが、 その美しさを自分の蕾の中に埋もれさせてしまってる。 それは、ケチなきみ、浪費だよ。 そんな世界を気の毒に思えよ、この食いしん坊め。 みんなが求めるものまで喰い尽くして、きみの美しさはお墓行きだ。 (Contondo 訳)

 

  この詩を朗読する女(土江優理)の台詞回しは、この劇の最大の見どころといっても過言でないだろ う。Contondo訳は、意味の正確さと日本語の言い回しの良さを絶妙に按配して、彼女の語りの迫真性に貢献している。  美しい「きみ」。それは男であっても女であってもかまわない。自分が美しいと感じ、愛を捧げる人を想像してみるがよい。「美しい」( ‘fairest’, ‘beauty’ )というだけでは、その美しさを存分に言い表せ ない。そんな時、詩人は比喩を使う。 ‘beauty’s rose’ (「美しいバラ」「美のバラ」「美というバラ」・・・) エリザベス朝当時、バラは美と真実の象徴であったというだけでなく、特に恋愛詩において、はかない美しさを表すものであった。バラの花びらが一枚、二枚と落ちていって、ついに永遠に失われてしまうような美、そのような美しさとはかなさを同時に表すものであった。バラの比喩を用いると、このように、 漠然とした「美しさ」に「はかなさ」が加わる。もちろん、バラの赤や白やダマスクといった色彩も加わるだろう。シェイクスピアの比喩は、美をバラに例えるだけにとどまらず、もっと複雑で重層的である。詩人は「きみ」が「自分自身の目の輝きと契りを結んでしまっている」という。当時、目は、光を放つ光源体であると考えられていた。「きみ」の目から放たれた光は、鏡か、あるいは水面に映って反射し、「き み」は自分の放った光と戯れる。それは、自慰行為をも思わせる。子をもうけるべき異性の結婚相手と結婚せずに。その結果、自分自身を形作るべき燃料でもって、(目の)炎を燃やしながら、自らを喰い尽くしていく。そこにあるのは、ロウソクの比喩である。燃えれば燃えるほど、自身はやせ細っていく のである。そのさまは、さらに、肥えて実り(=子)を産むべき土地に、飢饉(=不妊)が訪れるという 比喩につながる。さらに、自分が自分の敵となる、という戦いの比喩につながっていく。そんなことになっても本当にいいのかい?詩人はそう、問いかけるようである。いや、それでいいはずはない。「きみ」は、「世界を美しく彩る」ものなのだから。「麗らかな春の訪れを告げる伝令」なのだから。美のバラをパッと咲かせて世界を喜ばせるのではなく、蕾の中に「きみ」は本来の美しさを閉じ込めている。 「けちん坊」(churl)!詩人は、「きみ」にそういなす。  これほど複雑で重層的な比喩でもって、ソネット1番は紡がれている。しかも、たったの十四行の中に。紺野ぶどうの演出の秀逸なところは、十四行詩に紡がれる結婚にまつわる様々なテーマを、ちょうど十四場に分けて描いている点である。なかなか機知に富む、洒落た演出ではないか。  ハワードの「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」には、じつは、フランク・シナトラが歌ったものの前に、次 のような一節がある。

 

Poets often use many words to say a simple thing.   It takes thought and time and rhyme to make a poem thing.   With music and words I’ve been playing.   For you I have written a song To be sure that you’ll know what I’m saying,  I’ll translate as I go along.  

詩人は簡単なことを言うのによく様々な言葉を使う。 詩というものを作るには、考えて、時間をかけて、韻を踏む。 音楽と言葉に乗せて、わたしは紡いできたよ。 きみのために歌を書いたよ。 きっとわたしが何を言いたいか、きみはわかってくれるね。 わたしは歌いながら、心を伝えるよ。

 

 シェイクスピアはソネット集で、執拗なまでに手を替え品を替え、「きみ」に結婚を勧める。「ほっといてくれ」と言いたくなるかもしれない。無視を決め込みたくもなろう。だが、ここはひとつハワードが上で言うように、我々もソネット集を読もうではないか。シェイクスピアが考えて、時間をかけて、韻を踏んだ、 その心の声を聞こうではないか。Contondo の『沙翁十四行詩』は、それを十分に聞かせてくれるだけでなく、見せてもくれる。そうすると、我々の日常と非日常が混ざり合ってくる。それはまさに、Contondoの世界。

 
廣田麻子

和歌山県立医科大学教養・医学教育大講座英語教室教授

 
関連
Contondo
沙翁十四行詩集
ライナーノーツ
2017
bottom of page